母が私の本を書いた

母親が私のことを書いた本を自費作成し、送ってきた。

読んでくれというので読んだ。その本には私が産まれた時から中学生までの様子が書かれている。

 

感想を求められたので、新鮮味がないと答えた。

 

母の欲しい言葉は分かっている。こんなに私のことを想ってくれてありがとうとか、苦労して育ててくれてありがとうとか、よかったとか、感動したとか、そういう言葉が欲しいのだろう。

 

分かっていたけれども、その言葉を与えることはできなかった。自分の中に抵抗があったのだ。

 

 

母はこの本を私のことを知っている親しい人何人かに送ったらしい。その母の本を読んだうちの一人から、娘さんは小さい頃から色んな複雑な思いに揉まれて生きてきたんですね。大変だったでしょうね。と言われたそうだ。

 

それに対して母は、他の子だったら病気とかになってしまうかもしれないけど、うちの娘はしっかりしているので大丈夫ですと答えたそうだ。大丈夫かどうかは私が判断することであって、母が判断することではない。

 

それに私のプライバシーのことなのだから勝手にいろいろな人に送られては困る。私が幼少期に仲が良かった子のお母さんにも送っていたのを知った時は流石に抗議した。

 

そもそも書いてくれとも頼んでいないのに、言い方は悪いが勝手に書き、書いている最中あたかも私のために書いてやったと言わんばかりの態度をとってくることがしんどかった。書いている最中も喧嘩をすると、せっかくあなたの本を書いているのに無意味だねと言ってくる。母の思いは分かるが、それは押し付けなのだと言いたかった。でもそう言うと母は傷付くし怒り出すだろう。

 

何はともあれ、私は母の本を読んで暗い気持ちになった。あまり思い出したくないことが多かったし、

だから新鮮味がないと答えざるを得なかったのだ。という言い訳をしておく。

 

 

母の欲しい言葉をかけることができなかった自分に罪悪感も抱く。

 

早速母からも

 

新鮮味がないって事は第二弾は書かなくていいってことだねやら、態度が横柄だとか、私の本を貶すのですっかり自信を無くしただのLINEが来ていた。

 

これに返答というか弁解していかないといけないと思うと憂鬱になってくる。

 

やっぱりお世辞でもよかったよとでも言っておけばよかったか。

 

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魔法の機械

 

昔、私の家には自営業をやっていたこともあって、タバコの自販機が2つと飲料の自販機が1つ置いてあった。

 

当然ながらタバコの自販機には一切興味が無かったが、子供の頃の私にとって飲料の自販機は魔法の機械で、それが自分の家にあるなんてもうそれはそれは夢のような心ときめく話だった。しかも自分の家に置いてある自販機なのだから、お金を入れてジュースを買っても、そのお金は自分の家に入ってくる。実質タダのようなものだ。なんて素敵なんだろうとわくわくしながらいつも自販機を眺めていた。

 

その中でも一際、私の胸をときめかせ踊らせる飲み物があった。それは「メロンクリームソーダ」だった。

 

メロンクリームソーダ、なんて贅沢な素敵な響きだろう。「メロン」「クリーム」「ソーダ」単語ひとつひとつとっても魅力的なのに、それを全てひとまとめにした飲み物が存在するなんて。

 

私は自分の家にある自販機に売っているメロンクリームソーダが飲みたくて飲みたくて仕方がなかった。しかしその頃、私の親はそんな体に悪いものを!と、市販のジュースを飲むことを許してくれなかった。ジュースといえば、手作りの八朔を絞って砂糖を入れたオレンジジュースもどきや、シロップにつけた梅を水で割った梅ジュースだった。

 

今思えば、それはそれで贅沢なのかもしれないが、当時はせっかくお金が戻ってくる自販機があるのに、飲み放題みたいなものなのに、どうして飲ましてくれないんだろうと憤慨していた記憶がある。

 

結局、その自販機でジュースを飲んだ記憶はない。

 

ただ今でも缶ジュースのメロンクリームソーダをみるとあの当時の特別にときめいた気持ちが蘇ってくる。

 

今週のお題「お気に入りの飲み物」

年度末の思い

 

早いもので、大学を卒業して1年。同時に社会人になって1年が経ちました。未だに自分が大人になったのか、なっていないのか分からないでいます。

 

4月から社会人2年目が始まります。社会人1年目は仕事に慣れることに必死で、得られたものは正直思い浮かばないくらい少ないです。

 

そう考えると自分の中で大学を卒業したことは大きかったなと思います。最初に社会人としてのスタートをきる、最後の学校生活の卒業だったので。

 

はやく社会人になりたいと思っている人もいると思いますが、私は学生のままでいたい、社会人になんてなりたくないと思っていました。

 

その思いを覆されるような企業に就職するなり、ニートになるなり、何かしら「社会人になりたくない」という思いを払拭するチャンスがあったのかもしれませんが、そのチャンスを掴めないまま1年が過ぎました。

 

卒業してたった1年、はやくも1年ですが、同級生の中には結婚した人もいれば子供が産まれた人も、転職した人も、仕事を辞めたいとぼやいている人も、そして亡くなった人もいます。みんなみんな変化していっています。

私も主観的には分からないけれど、客観的にみると変化しているのかもしれません。

それがポジティブな変化かネガティブな変化かは分かりませんが。

 

いつかまた何かから卒業できるように今年は何か変える1年にしたいと思っています。できればポジティブな変化が起きますように。

 

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今週のお題「卒業」

母と3万円

先日、私の一人暮らしの家に母親が来ていた。

当然の如く喧嘩になり、母は3泊4日滞在したのだが、結局最後の最後まで喧嘩をしたままだった。

 

母は激怒していて、私がいらないと言ったのにも関わらず、迷惑料とクリーニング代、宿泊代として3万円を置いていった。

 

 

その後、母からきたLINEをみるとそのお金は手切れ金で、それを受け取ったら親との手切れ契約が成立するから、受け取るのであれば受領書を送ってこいといった内容が書かれていた。

 

さらに、母は私に絶望しているのか、もう私は死んだもの生きると宣言していた。

 

母はいつもこうで、大体喧嘩になるのも母の精神状態が悪い時だ。そんな時に喧嘩になると、母は極端な行動をとる。

 

それにいちいち反応して言い返したりしていたらこちらの精神がもたないので、そういう時は母からの連絡は一切無視してやり過ごすことにしている。

 

時間とは不思議なもので、時間が経つと母はケロッとしていることが多い。その変わり様といったら別人のようだ。

 

案の定、数日後、電話をかけると母の機嫌はすっかり直っていた。

 

その際に、置いていった3万円をどうしたらいいか聞くと、お金に困ってるんでしょ、お小遣いとしてあげるよという。

 

私は手放しには喜べなかった。今はこう言っていても、後で返せと言われるかもと思った。が、その場では、いいの?ありがとうと言っておいた。

 

そうした事があったのち、自分の複数ある内の1つの銀行口座をみると3万円がおろされてあった。(その口座のキャッシュカードは私が持っているが、通帳は親が持っている)

 

それを見て、失望してしまった。これはおそらくあの3万円だ。

 

母親はちゃんと3万円分を私の口座から取り返していた。

 

それにも関わらず、電話ではあなたにあげるねと言っていた。

 

その心理が分からない。

 

また親が信用できなくなってしまった。

 

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ほろ苦いのバレンタインデー

 

中高生の頃、バレンタインデーといったら一大イベント。好きな人に贈ることはなかったけれど、毎年友チョコ作りに勤しんでいた。

 

せっかく作るのだから美味しいものがいいし、ラッピングも可愛いものが良い。スーパーと100均を巡り、トリュフや生チョコ等々作った覚えがある。今思えばよくやっていたなと思う。

 

そんな中学生の時に、生キャラメルを作ったことがあった。

 

生キャラメルを作るには材料を鍋の中に入れて煮詰めていかないといけないのだが、焦げつかないようにゆっくり混ぜながら煮詰めることがポイントだ。

 

その時は、家に木ベラがなかったので、100均でゴムベラを買った。そのゴムベラを使って混ぜることにした。

 

材料を入れて鍋を火にかけ、温まってきた頃合いを見計らって混ぜる。手が怠くなりそうだったがひたすらに混ぜた。

 

途中で、鍋の底が深くなったような感覚がしたが、特に疑問には思わず混ぜ続けた。

 

しばらく煮詰めていると、鍋に何か白いものが浮いていることに気づいた。チョコレートが分離しているのか?と思い、ゴムベラを鍋から引き上げると、ゴムベラの先が溶けてなくなっていた。

 

えっっっっ、、、、、

 

 

 

できたのはゴムベラ入りの生キャラメル。

 

とても食べられない。泣く泣く捨てた。もう100均のゴムベラで生キャラメルは作らない。

 

そんな中学生のバレンタインはよく覚えている。

 

因みに今年のバレンタインは誰にも作らないしあげずに終わりそうである。

 

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今週のお題「わたしとバレンタインデー」

休日の過ごし方

 

最近ミッフィーのスリッパを買った。それがきっかけで、この歳になってミッフィーにはまってしまった。小さい頃からずっとキャラクター物はあまり好きではなかったけれど。可愛いです。

 

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それにしても部屋が汚い。(写真はマシ中のまし)

 

私は雑誌とかに載っているような丁寧な暮らしに憧れ、夢見てはいるが、面倒くさがりなのでなかなか実現できない。まず、こまめに掃除とか片付けができない。服は脱ぎっぱなしで物は出しっ放しにしてしまう。そして休みの日とか人が来る日に一気に片付ける。そんな日々が続いている。

 

 

今日は仕事が休みなので、部屋の片付けや掃除をしていく1日にしようと思っている。

 

なんて考えつつ、断捨離をしようと物を引っ張り出すのでまた散らかる。その繰り返しである。今日こそは今日こそは片付ける!と思いながら、全然集中できない。そんな駄目な自分を認めつつ頑張りたいと思う。何より今日は休日なのだから、休むことが最優先だ。

 

そういえば、昔からなんとなく休日に何か実りのあることをしなければ!という考えに囚われている気がする。

休日は貴重な日の為、だらだらして終わってしまったら何か勿体無いような、いつもはできないことも時間があるからできるのに、できなかった、というようなそんな後悔があるのだ。

 

しかし本来ならば、休日は休む日なのだから自分の好きなように過ごして良いし、何かしなければ!という思いに囚われなくてもいいのだ。

それは分かっているのだけれども、なかなかそうやって開放的な気分になって休むことは難しい。

 

 

私が真面目な性格だからだろうか、それとも休みが少ないからだろうか。

 

 

 

現代美術。国立国際美術館にて。

 

自分が興味のない分野には思わぬ新しい発見があるかもしれない。

 

先日、大阪の中之島にある国立国際美術館で行われている展覧会「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」「コレクション 2 : 80年代の時代精神ツァイトガイストから」をみに行ってきた。

 

正直なところ、全く興味がなかったのだが知人に誘われたので、良い機会だと思いみに行くことにした。

 

これらの展覧会は、そのタイトルの通り1980年代の作家による作品を展示してあるものである。

そもそも現代美術とは何かというと

20世紀美術をさす場合もあるが,一般には第2次世界大戦後の美術。

現代美術(げんだいびじゅつ)とは - コトバンク

らしい。

 

現代美術と現代アートは同じ意味らしいが、どちらかといえば現代アートの方が親しみがあるというか耳馴染みがある気がする。

 

私はこの現代美術、現代アートというものがさっぱり分からない。

 

小学生が創作したような奇妙なオブジェをみたときは困惑してしまうし、はたまた一面に色を塗っただけのような絵を見ると、これがどうして評価されるのか不思議に思ってしまう。

現代アートに関しては、多分多くの人が同じようなことを思っているのだろう。現代アートで検索をかけると、鑑賞の仕方や楽しみ方がずらずらと出てくる。

 

ちなみに私が好きなのは風景画だ。風景画は、パッとみたときに美しいとか色合いが好きだとか判断がしやすい。要するに私はある意味、分かりやすい絵が好きなのだろう。アホなのかしら。

 

 

それはさておき、展示されているということは誰かに評価され、選ばれた作品なのだ。一体どこを評価されて展示されているのだろう。

 

そんな疑問を抱えつつ、分からない分からないなあと頭を混乱させながらみていったのだが、展示場にちょこちょこある解説文や紹介文の中に、ヒントを見つけた。

 

肝心なところを忘れたのだが、「意味を求めずに絵をみることは難しい」といった旨の記載だった。

 

それを読んだ時に、ちょっとだけ腑に落ちた気がした。

 

この分からない分からないと思いながら作品をみている自分はひょっとすると、とても難解な事案にチャレンジしているのではないか?とふと思ったのだ。

 

私はずっとみる作品に対して、何らかの意味を求めようとしてみていた。しかし、その意味を求める必要は必ずしも無いのでは?何も求めず、ありのままに需要することは難しいがそれでも良いのでは?そしてそれが出来ることは凄いことなのでは?

 

そう考えた時、分からないなりにもみている自分を認めることができた。私はとても難しいことをやっていたのだ。アホではなかったのかもと。

 

考えるに作品は作者が自分の内面から生み出したもの。私は、人はそれぞれ自分の中に宇宙があると思っている。

そして私は、これらの作品を通してその人の宇宙をみているのだ。なんてロマンがあるのだろう。

 

宇宙が理解できないのは当然だ。唯一無二で広く大きく深いのだから。

そんなことを思いながら、満足した私は帰路に着いたのだった。

 

 

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