現代美術。国立国際美術館にて。
自分が興味のない分野には思わぬ新しい発見があるかもしれない。
先日、大阪の中之島にある国立国際美術館で行われている展覧会「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」「コレクション 2 : 80年代の時代精神ツァイトガイストから」をみに行ってきた。
正直なところ、全く興味がなかったのだが知人に誘われたので、良い機会だと思いみに行くことにした。
これらの展覧会は、そのタイトルの通り1980年代の作家による作品を展示してあるものである。
そもそも現代美術とは何かというと
20世紀美術をさす場合もあるが,一般には第2次世界大戦後の美術。
らしい。
現代美術と現代アートは同じ意味らしいが、どちらかといえば現代アートの方が親しみがあるというか耳馴染みがある気がする。
私はこの現代美術、現代アートというものがさっぱり分からない。
小学生が創作したような奇妙なオブジェをみたときは困惑してしまうし、はたまた一面に色を塗っただけのような絵を見ると、これがどうして評価されるのか不思議に思ってしまう。
現代アートに関しては、多分多くの人が同じようなことを思っているのだろう。現代アートで検索をかけると、鑑賞の仕方や楽しみ方がずらずらと出てくる。
ちなみに私が好きなのは風景画だ。風景画は、パッとみたときに美しいとか色合いが好きだとか判断がしやすい。要するに私はある意味、分かりやすい絵が好きなのだろう。アホなのかしら。
それはさておき、展示されているということは誰かに評価され、選ばれた作品なのだ。一体どこを評価されて展示されているのだろう。
そんな疑問を抱えつつ、分からない分からないなあと頭を混乱させながらみていったのだが、展示場にちょこちょこある解説文や紹介文の中に、ヒントを見つけた。
肝心なところを忘れたのだが、「意味を求めずに絵をみることは難しい」といった旨の記載だった。
それを読んだ時に、ちょっとだけ腑に落ちた気がした。
この分からない分からないと思いながら作品をみている自分はひょっとすると、とても難解な事案にチャレンジしているのではないか?とふと思ったのだ。
私はずっとみる作品に対して、何らかの意味を求めようとしてみていた。しかし、その意味を求める必要は必ずしも無いのでは?何も求めず、ありのままに需要することは難しいがそれでも良いのでは?そしてそれが出来ることは凄いことなのでは?
そう考えた時、分からないなりにもみている自分を認めることができた。私はとても難しいことをやっていたのだ。アホではなかったのかもと。
考えるに作品は作者が自分の内面から生み出したもの。私は、人はそれぞれ自分の中に宇宙があると思っている。
そして私は、これらの作品を通してその人の宇宙をみているのだ。なんてロマンがあるのだろう。
宇宙が理解できないのは当然だ。唯一無二で広く大きく深いのだから。
そんなことを思いながら、満足した私は帰路に着いたのだった。